音楽スタジオファイル Vol.34
西荻窪 LA.QUENE 楽音
- LA.QUENE(楽音)について
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1998年3月、西荻窪北口の銭湯跡地にオープン。広い1フロアに全7部屋とミーティングスペースを備えたリハーサルスタジオ。高円寺で育ったチーフの永井 健嗣氏は若い頃からプロミュージシャンとして活動し、28歳でスタジオLA.QUENE(楽音)を設立。20代で両親の死に直面しながらも、不屈の精神で歩んできた音楽人生。自由度の高い個人店の強みを生かした地域密着スタジオは、西荻シルクロードに湧き出ずる音の源泉。
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[閉店] 杉並区西荻北2-2-14 第2喜志コーポ1F
TEL 03-5310-1660
受付時間 10:00〜営業時間中
音楽スタジオの中の人に話を聞いてみた〜 [Closed] LA.QUENE 編
このコーナーは音楽スタジオでミュージシャンをサポートしてくれる「中の人」に突撃インタビューして、色々お話を聞いてしまおうというコーナーです。中の人の皆様、ご協力ありがとうございました。
MUSIC STUDIO LA.QUENE(楽音)チーフ 永井健嗣 氏
本日は西荻窪の音楽スタジオ「LA.QUENE(楽音)」のチーフ、永井さんにお話をお伺いします。西荻窪においてもかなり知られたスタジオです。オープンまでの経緯を教えてください。
1998年3月にオープンしたので今年(2016年)で19年目になります。それまではバンドやサポートミュージシャン、音楽関連の仕事をしていましたが、将来の事を考えてスタジオをオープンしました。僕が28歳の頃になります。
かなり若い頃の決断ですね。
実家が高円寺で商売をしていたのですが、父親が早くに他界して母親が一人でがんばっていました。だから、母親を手伝うという意味もあって、音楽スタジオの経営を計画していました。具体的なことを母親と相談していたその矢先、母親も亡くなってしまったのですが…。
苦しい心中でのスタートだったのですね。高円寺からこちらに移ってきたのは?
高円寺の店舗は、お寺の参道商店街にあって、マンション化計画の区域で土地を売ってほしい、という打診がきていたんですよ。駅からも遠く、商店街も活気がなくなってきた頃ですし、縁あってこの物件を紹介してもらったので、高円寺から西荻窪に移ってここにスタジオをオープンしました。
移ってきた西荻窪はどのような街でしたか?
吉祥寺や高円寺と、そんなには変わらないと思いました。ミュージシャンに限らず、芸人さん、舞台関係の人も多いのではないでしょうか。
駅からも近く、広い1フロアでスタジオに最適な空間ですね。
この物件、僕が来る前は、銭湯だったんですよ。さきほどのマンション建設に関わっていた工務店にここの大家さんがいて、当時の経営者がご高齢になって銭湯をやめるということで、ここ、西荻窪の銭湯跡地を紹介してもらいました。
若い頃からプロで活動し、スタジオ経営約20年の永井さんからみた音楽スタジオ事情を教えてください。
最近は、ドラム、ベース、ギターがいる、いわゆる通常の生バンドは減っている傾向があります。代わりに、カラオケ音源だけ持って来て歌だけ歌いに来る、たとえばアイドルを目指しているような、そういう個人練習利用が増えてきていますね。
やはりバンドは減っている印象ですか?
そうですね…、今はバンド活動の環境が変化していて、昔のイカ天なんかのバンドブーム時代は、曲を合わせるにも、練習するにも、こういう場所(スタジオ)を利用する以外に方法がなかったじゃないですか? 今は、それらの作業はパソコンを使って、ネットでやっちゃいますから。バンドで長い時間スタジオを使うという必要性がなくなってきている。
学校内の部室に防音が入ったり、いい機材が揃ってる
たしかに、とくに若い世代はその傾向が強いですね…。
それと、バンド活動が市民権を得てきた影響もあるんじゃないでしょうか。『けいおん!』みたいなアニメの影響もあったのか、軽音部やバンドの部活が市民権を得て、学校内の部室に防音が入ったり、いい機材が揃ったりしてるんです。
軽音部の部室で練習できるのなら、わざわざスタジオに足を運びませんね…。
そうなんです。昔は、バンドの数が多くて、学校の中だけでは時間が取れなくて、スタジオに出向いてくる学生の利用者が多かったんですけど、学校内の環境ですべて事足りているような状況だと思います。そもそも、昔は軽音部って学校からNGがでるようなものだったじゃないですか(笑)。
はい、バンドをやっているのは不良、みたいな(笑)
今は軽音連盟というのが確立されて、野球の甲子園みたいな全国大会もやっていますよ。専門学校や楽器メーカーなどが協賛について、八王子の工学院さんみたいな大きなホールで大会をやっていて、昔とはずいぶん状況が変わりました。
まあ、バンドの地位は向上したということで(笑)。バンドのスタジオ予約ペースも変化があると聞きます。
毎週1、2回練習しているバンドもいますが、皆さん何かと忙しいのか、とりあえず次回の練習日時だけ、そこで話し合って予約して、その次は、また、その時考える…、という感じになっています。昔は予約受付開始直後に予約電話がきて一ヶ月分の予約をまとめて取る、というのが日常の光景でした。まあ、それだけ利用者が多かったからなのですが。
これからスタジオ経営をはじめようとしている人にアドバイスするとなると?
新しくスタジオを始めたいのであれば、バンドの練習より、個人練習を重要視して、動画サイトにアップしたり、ネット生放送配信したりできる環境は必須じゃないでしょうか。
それでは続いて永井さんと音楽の出会いについてお聞かせください。
小学生のころはバリバリの野球少年だったので、中学に入っても野球をやる予定だったですが、吹奏楽部の先輩の強引な勧誘があり(笑)、断り切れないまま、気付いたら吹奏楽部に入っていました。それが音楽を始めたきっかけです。
楽器は何をやっていたのですか?
ホルンを吹いていました。中高一貫の学校だったので、高校生の先輩とも一緒にやっていましたよ。と、言っても、実は1年しかいなかったんですけどね。
やめちゃったんですか?
中学1年生の文化祭で先輩たちが、吹奏楽をやっている人にも人気があった「スペクトラム」というバンドのコピーをやっていたんですね。それを見て衝撃を受け、先輩に教えてもらいながら、自分もロックを聴くようになりました。当時、吹奏楽部はなぜだかベースをやっている人が多くて、流れのまま自分もベースをはじめて、部活もやめてベースの道に進みました。
ベーシストに転向以降、影響をうけたミュージシャンは?
きっかけはスペクトラムですが、スラップ(チョッパー)によるベースプレイが派手だったラリー・グラハムには大きな影響をうけました。ベストヒットUSAなども熱心に観てました。ホーンセクションの入ったバンドが特に好きでしたね。
それから高校時代はずっとバンド活動ですか?
高校ではバンドばっかりの生活で進級できず留年
はい、高校ではバンドばっかりの生活で、学校も行かなかったので、3年に進級できずに留年しました(笑)。留年した年の夏に、YAMAHAのEastWestというバンドコンテストのジュニア部門で個人の賞をもらったんです。バンドも決勝まで進んで、要するに良い所まで行って…。
高校を退学してしまう?
ちゃんと卒業しようかと思ったんですけど、調子に乗って『学校はいいや』ってことで辞めちゃいました。その後、音楽の専門学校に通いながら、初めて受けたオーディションで、これまた運が良かったというか、ブラスバンドをやっていたから譜面が読めたので合格しちゃって。
それが、プロミュージシャンとしての活動のスタートですね。
そうですね、デビュー予定の女性アーティストのサポートミュージシャンの仕事でした。その後、20歳の時に、あるバンドがデビューして上京する際にベーシストが脱退したというので、後任を任されました。実はその連絡が来た日は父親がなくなった日で、『明日、来れる?』みたいな話で…。行きましたけど(笑)。
練習することにストレスを感じないような環境作り
人生として複雑すぎる日ですね。でも、ロックな生き様、尊敬します!
いやいや…(苦笑)。まあ、20歳代はそういう形でバンド活動をしていましたが、それだけで食えたわけではないので、学校の講師やアルバイトをしながら、26、27歳の時に将来を考え始め、最初にお話したスタジオ設立までの流れとなるわけです。
それでは最後に、楽音さんからメッセージをお願いします。
正直な話、経営的にはカツカツの厳しい状況で、補修や機材を新しくしたいのに、なかなか出来ていないのですが…。バンドマンの多くは経済的に余裕がない中で活動していると思うので、彼らの金銭的な負担が大きくならないようにしつつ、『練習することにストレスを感じないような環境作り』を心がけています。
永井さんの若い頃からの経験も活きていますね。
少しでも、この店の雰囲気を知ってもらいたいので、お客さんもアルバイトたちも、プラスになると思うことは、自分の判断でどんどん自由にやって良いようにしています。個人店だからできる、融通の効く、何でもありのスタジオです。ぜひとも一度遊びに来てください!
本日は貴重なお話をありがとうございました。
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